脱出!東京地獄地震っ!! | 2006.4.9 |
あなたは。 人間が歩いてどこまで行けるものなのか、考えたことはあるだろうか? 私は無い。 しかし。 考えたことがなくても。 いやでも。 歩き続けなければならない日がやってくる。 かもしれない。 やってこないかもしれない。 やってこないほうがいいけど、やってきてしまうのかもしれないしこないかもしれないけど、いつかはやってくると言われている。 西暦2006年4月1日。 9:03 AM 東京を直下型地震が襲った。 マグニチュード7.2。 千代田区で震度6強を記録した。 耐震偽装マンションを筆頭に、多くの建造物が倒壊し、交通は完全に麻痺した。 というエイプリルフールの大嘘から、我が社の避難訓練が始まった。 巨大な地震であったにもかかわらず、当社のビルは倒壊をまぬがれ、けが人も、にこにこ笑っている軽傷者が二名だけだったのは、日頃の心がけのたまものであろうか。 しかし。そんなたまものもつかの間。 会社周囲の偵察に出動していたK社員から、駐車場で我が社の営業車が炎上しているとの緊急通報が入った。 常に一枚岩の我々は、全員で駐車場に急行、消火作業に入った。 二本の消化器をみんなで仲良く順番に使い、後ろのほうで隠れるように立っていた女性社員にも、 「ほらほら遠慮しないで」 と、暖かい声がかけられ、絶妙のチームワークのすえ、消火作業は無事終了した。 炎上していたにも関わらず車は無傷であった。 社屋は倒壊をまぬがれたものの、この場にとどまることは危険と判断した我々は、ここいらの公式避難場所である皇居東御苑に向かった。 先頭で先導するのは営業部のC課長、そしてしんがりは、僭越ながら、ご指名でありますので、私が務めさせていただきます。不慣れな役目ゆえ、いたらない点も多々あろうかとは存じますが、緊急事態ゆえ、ご容赦くださいませ。 集団での避難行動は、急がずあわてず同じペースで移動するのが鉄則である。 我々もその鉄則を守り、粛々と移動していたが、突然前方の動きが鈍り、ほとんど止まってしまった。 異常事態発生かと臨戦態勢に入ったが、そこは平将門の首塚の前で、みんなでなんとなく見物していたのだった。 こんな状況でたいした余裕である。たのもしい。 10:13AM 皇居大手門到着。 社員の一人(女性)が、 「そうかぁ!大手町にあるから大手門なんだぁ」 と、謎が解けたように言う。 大手門があるから大手町なんじゃないかという可能性を指摘すると、 「そうかぁ、そうかもしれないねぇ」 と感心していたが、基本的にどっちでもいいようだった。 思えばのどかな会話であった。 これから襲いかかってくる震災の本当の恐ろしさを、まだ誰も知らなかった。 |
第2回へつづく↓ |
脱出!東京地獄地震っ!! 第2回 | 2006.4.15 |
大手門をくぐり、次の門の前で集合。 残念ながら、全員が行動を共にできるのはここまでという決断が下される。 これから先は、自宅のある方面別にグループに分かれ、徒歩で帰路に就くことになる。 私が所属するのは総勢5人の「埼玉県越谷方面チーム」。 隊長は営業のK部長。 他のみんなは歩きやすい服装や靴でこの災厄の日を迎えたが、K部長だけは背広にコート、革靴着用であった。 誰かが、 「長い間営業マンとして長い間生きてきたから、あの格好が一番歩きやすいんだろう」 とささやいていた。 そして。 必ず生きて再会しようと、涙でにこにこ誓い合い、各チーム各方面へ、自宅目指して散っていった。 中にはどうしても仕事を続けたいと、命がけで会社へ戻った者もいたことを付け加えておこう。 我々越谷チームは、外堀通りから、昭和通り、そのまま日光街道、というルートで帰宅する作戦で行動を開始した。 東御苑から外堀通りめざし、力強く歩をすすめる勇敢な越谷チーム。 しかし、そのルートは、一旦ほぼ会社へ戻るルートのため、しばらく歩いてもいつもの行動圏内を出られず、災害で衝撃を受けた我々の心をさらに疲弊させた。 ある通りを横切ったとき、A隊員(女性)が、心底うんざりした声をあげた。 「まだここなの~」 ふと見ると、その通りは、会社からまっすぐ外堀通りにつづいている通りだった。 私もうんざりした。 11:00AM アキバ突入! といっても会社のある神田から駅ひとつだけど。 しかしなんといっても秋葉原である。 気を抜いて歩いていたら、暴徒と化したオタクに襲われて大変なことになるかもしれない。 同じように避難しているメイドさんと恋が芽生えるかもしれない。 とにかく大変なところなのだ。なんといってもアキバだから。 と、いろいろ妄想していたが、待っていたのはオノデン坊やだけであった。 11:15AM 春日通り通過。 隊長の判断で、上野公園へ向かう。 やや遠回りになるかもしれないが、きっと桜がきれ、、いや、隊員の安全を考えての判断である。 11:19AM 上野公園突入。 老若男女、すごい数の人で埋め尽くされている。 皆、震災から逃れてきたのであろう。 私はこのとき初めて知った。 満開の桜の下の避難民は花見客にそっくりであるということを。 池も、避難するボートでいっぱいである。 しかしどこへ逃げようというのだろう? 上野公園通過中に空腹を訴える隊員が続出。食料の調達が急務となり、公園の脱出を急ぐ。 昭和通りに出て、しばらく歩いたところで営業中のとんかつ屋を発見。 これから歩き続けるにあたって、とんかつはちょっと重いかな?という考えが頭をよぎったが、この先どこで食料を調達できるかわからないので、ここで昼食をとることにした。 |
第3話につづく↓↓ |
脱出!東京地獄地震っ!! 第3話 | 2006.4.23 |
昼食後、再び避難開始。 生きるために避難しているが、生きるためには食べることも必要なのだ。 国道4号線をとにかくまっつぐ。 これが文字通り、我々の生きる道なのだ。 12:47PM 「日本メタリコン」発見。 「世界メタリコン」とか、「東アジアメタリコン」とかもあるんだろうか? 12:52PM 警視庁下谷警察署前通過。 この非常時に警察は何をやってるんだろう? なんてつぶやいてみる。 12:56PM 金太郎飴本舗前通過。 どこを切っても金太郎。ここにあったか金太郎。 金太郎の力強い姿に勇気づけられるが、写真ばかり撮っている自分の避難態度に疑問が生じる。 これでいいのか。妻よ子よ。 父よ母よ妹よ。 妹なんていないけど。 01:03PM 都電荒川線入り口、三ノ輪橋商店街通過。 01:15PM 千住大橋に到達。 この橋は重要である。 体力的には問題が無くても、橋が落ちていれば、その時点で徒歩の避難は不可能になる。 これが川の向こうに住む者たちの宿命である。 命の橋である。 私は、『クワイ河マーチ』を口笛で吹きながら揚々と橋を渡り始めた。 実はそれが『クワイ河マーチ』ではなくて、『史上最大の作戦マーチ』だったということに気づいたのは、橋を渡りきる寸前であった。 こうして無事、隅田川を越えたのであった。 01:19PM 曙金網発見! 曙が金網デスマッチをする姿を想像してちょっとおかしくなる。 「パンチング」とか書いてあるし。 しかし、足立って、「木と緑のまち」だったんだ。知らなかったなぁ。 01:21PM 京成電鉄千住大橋駅通過。 歩くのがだんだんつらくなってきた。 みんなから少しずつ遅れてきた。 もう少し歩けば北千住。 でも、もう歩きたくない。 なぜ私はこんなに歩いているんだろう? 電車のありがたみが身にしみる。 定期券の便利さが心に痛い。 「昔の人はえらかった」とつぶやいてみる。 昔って、どのくらいだろうかと想定してみる。 江戸時代とかかな。 つらいつらいと思いながら歩いていると、前方に、先行していた他の隊員たちがたむろしているのが見えてきた。 気のせいかもしれないが、 「もういいんじゃない?」 というオーラが発散しているように見受けられた。 気のせいかもしれないが。 私が追いつくと、隊長から「休憩タイム」の宣告がされた。 休憩か。終了じゃなくて休憩か。 ということは休憩が終わればまた歩くのか。 歩くのか。 ホントに歩くのか? ホントか? 北千住の駅前の通りに入って休憩場所を探す。 ミスタードーナツがあったのでとっとと入る。 あまり場所を選ぶ体力も気力も我々には残っていない。 飲み物を頼んでみんなでだら~っとする。 店内には若いカップル、親子連れ、ひとりぼっちのおばちゃんなど、さまざまな人々がいたが、誰も我々が千代田区から歩き続けてきた集団だとは思っていまい。 A隊員(女性)が靴下を脱ぎながら言った。 「わたし、替えの靴下を持ってきたのよー。靴下を替えると疲れがとれるのよー」 と言った。 「え?ホント?」 と訊くと、 「そんな気がするじゃなーい」 だと。 「気」かよ。 ここで誰かが。 誰かが一言。 「もうやめてもいいんじゃない?」 と言えば、この地獄の避難は終了しそうな雰囲気が漂っていた。 しかし。 その「誰か」に、誰もなりたくなかった。 「2時、15分になったら出発しよう」 ついに隊長が宣告した。 あと20分くらいの微妙な時間どりだ。 歩きたくない。出発したくない。 ずっとここで座っていたい。 ずっとミスタードーナツの椅子に座っていたい。 なんならミスタードーナツの椅子となって余生を送ってもいい。 しかし時計の針は時計仕掛けにちゃくちゃくと回転し、 02:15PM 出発の時間だ。 さぁ出発だ。 やだけど出発だ。 我々はふらつく足でミスタードーナツを出た。 |
エピソード4につづく↓ |
脱出!東京地獄地震っ!! エピソード4 | 2006.4.29 |
もうだめだ。 もう一歩も歩けない、と思いながらミスタードーナツを出た私だったが、休憩のせいか、歩き始めてみると、そんなに歩行が苦痛ではなくなっていた。 不思議と元気が出てきた。 元気が出てきて、ファッションヘルスの看板にも目がいくようになった。 コスチュームヘルスってどんなんだ? 02:30PM 千住新橋へ 千住新橋を渡るには、普通の道路から長い坂を登っていかなければならない。 まっすぐまっすぐつづく坂は、普通でも歩きたくないくらい遙か彼方まで続いている。 しかし、不屈の闘志で坂を登り切り、そしてついに荒川を渡る。 「あら川」って。 あら奥さんかよ。 千住新橋から普通の道路に出るには、今度は坂道を降りる。 A隊員が後ろ向きに歩きながら言った。 「後ろ向きに歩くと楽~」 A隊員よ、それじゃだいたひかるのネタだよ。 千住新橋を渡りきり、普通の道路へ。 ずっと4号線を歩いているので、この「4」という表示もだんだんうっとうしくなってきた。 今日一日でこの「4」を何回見ることになるのだろう? 03:04PM 2体の謎のマシーン発見。 きっと親子だ。 続いて3体の謎のマシーン発見。 きっと兄弟だ。 親子マシーンのほうはちょっと頭が悪そうだ。 03:11PM 足立区役所前通過。 03:15PM もうすぐ環七。 道路標示にも、草加、春日部など、埼玉県の地名が見える。 そのむこうには、数々の愛と欲望を見つめ続けてきたホテル・ステラーも見える。 やがて環七の象徴「梅島陸橋」が! 午後3時17分、環七通過。 もう少し歩けば竹の塚だ。 ついに竹の塚。心のふるさと竹の塚。 なぜ竹の塚にこだわっているかというと、その昔、足立区のスポーツセンタープールでアルバイトをしていたことがあって、このあたりでよく遊んだからだ。 思えば、妻との出会いもそのバイトであった。 03:30PM パール通過。 1階はスーパーマーケット、2階はボウリング場になっている、総合娯楽ショッピング施設パール。 このボウリング場でストライクを出すと、下のスーパーで使えるプラスチック製のコインがもらえるのだ。 って、今でももらえるのかなぁ? また、歩くつらさが強まってきたが、知っている建物を見ただけで、少し励まされた。 テニススクールゴルフスクール。 ススクールフスクール。 全体的に苦しい状況にあると、ちょっとしたことでもおかしく感じられるようになってくる。 こういう看板とか。 バッターの絵のタッチとか、「ン」の点がボールになってるとことか、そんなんでも笑いたくなる、笑いの貧乏人状態。 03:50PM 草加まで4キロ! 4キロ!もうなんだかどうってことないような気がしてきた。 草加まで4キロまでこぎつけた俺ってすげぇ?と自分に問いかける。 すげぇよ。と自分で答える。 このころにはみんな自分のペースで歩いていて、一本道をかなり距離を置いてばらばらに歩いていた。 私が一番後ろで、前方に時々A隊員の姿が見えている程度だったが、竹の塚を過ぎたあたりの交差点の手前でK隊長とA隊員がなにやら話してるのが見えてきた。 ゆっくりゆっくり追いつくと、K隊長はぼそぼそと言った。 「谷塚でリタイヤしようかな…マメができちゃってさぁ」 隊長の自宅は私の家よりさらに10キロくらい先なので、さすがに自宅までは歩けないだろうとは思っていたが、谷塚をリタイヤポイントに決めたようだ。 谷塚を越えると次は草加なのだが、その間はけっこう離れているのだ。 隊長が離脱するのならしかたない。 ここまで死ぬも生きるも一緒だと歩き続けてきた我々だったが、ここで隊は解散だ。 先行しているU隊員とS隊員に電話で隊の解散を告げ、その後は各自の判断にまかせることにした。 リタイヤを決めた割にはすたすたと歩き出すK隊長を見送り、日が暮れるまでは歩くと言うA隊員を残し、歩き始める。 ここからはひとりぼっちの闘いなのだ。 04:07PM 埼玉県に突入! 千代田区から歩き続けてついに埼玉県に! 道路標示にも我が越谷の名前が! 近い!近いぞ。一歩あるけば一歩近づくぞ! まあ、ずっとそうだけど。 |
最終回へつづく↓ |
脱出!東京地獄地震っ!!!第5段階 | 2006.5.7 |
05:09PM 松尾芭蕉と遭遇。 かなり自宅に近い地点だが、初めて出会った松尾芭蕉。 「奥の細道」の芭蕉。 忍者疑惑の芭蕉。 知人の葬式で、「親も死ぬ 子も死ぬ 孫も死ぬ」と詠んで顰蹙を買った芭蕉。 一日徒歩の旅を続けてきた今こそ、たびびと芭蕉と、たびびと私の出会いの時だったのであろう。 ここらはもう普段の活動圏内だ。 川沿いに作られた松並木の続く遊歩道。 ウォーキングをする人たちの姿も見られる。 彼らに、東京から歩いてきたのだと言ったら、どんな反応をするだろう? すばらしいウォーカーと讃えられるだろうか? ウォーカーの王、すなわち「ウォーキング」の称号を与えられるだろうか? もう少し。 もう少しがんばれば。 だがしかし。 ゴールは目の前だというのに苦しさがどんどん増してゆく。 足がどんどん重くなる。 もう少しだというのに。 もうホント、かんべんしてという気分になってきた。 ここまでか。 もう限界か。いや、限界を越えたか? もう歩けないのか? 負けたくない。 私は負けたくない。 最後まで歩きたい。 そうだ! 歩くといえば! マーチだ! マーチといえばもちろん「怪獣大戦争マーチ」だ! 私は鞄から、黄金色に輝くMDウォークマンを取り出した。 ラベルに大きく「G」と書かれたMDをセットし、イヤホンを装着する。 高らかに鳴り響く「怪獣大戦争マーチ」に、沈んでいた心は高揚し、足にも力がよみがえってきた。 ありがとう伊福部昭先生! ふと空を見上げると、飛行機雲が空を横切り、まるで太陽を攻撃するミサイルのように夕日に突っ込んでいた。 そのとき時刻は、 05:30PM 夕空にキンコンが鳴り響き、子供は家に帰りましょうの時間になった。 我が社の勤務時間は朝9時から、午後5時30分まで。 ここからは残業ということになる。 あ、これって通勤時間になるのかな? 「怪獣大戦争マーチ」に力づけられた私は、長男が幼いころ通い、そしてまだ幼い長女をこの夏も遊ばせるであろう水場を越え、ずんずんと歩き続けた。 ずんずんと歩きながらふとあることを思い出した。 (そうだ。きょうは友達の家で飲む約束をしてたんだった) このまま歩いて自宅まで帰り、また歩いて駅まで行って、 ってかんべんしてくれ。 そんなわけで。 ゴールを自宅から、自宅最寄の駅に急遽変更。 距離はほとんど変わんないからいいだろ。 そしてゴール 05:40PM 夕暮れに、「祝」の字が、私の偉業を讃えていた。 この後友人宅へ向かったが、集まっていた友人たちに、驚きと、ご苦労様の言葉と、今までに見たことがないような妙な笑いで迎えられたことを報告しておこう。 月曜日 出社して、隊員たちのその後を確認すると、U隊員とS隊員は自宅まで、K隊長は谷塚よりもう一駅がんばって、草加駅まで、A隊員は6時半ごろまで歩いて、私よりひとつ先の駅まで行ったそうだ。 A隊員いわく、 「新田(私がゴールした駅)は草加市だけど、蒲生は越谷だから。やっぱり越谷まで行かないとね」 ということらしい。 しまった。そんなことぜんぜん考えてなかった。 でもあの時は、あとひと駅歩く気力も体力も残ってなかったなぁ。 こうして地獄の避難訓練は終わった。 この訓練で私が得たものは、 得たものは、 え~とえ~と。 条件が良ければ一日20キロくらいは歩ける、ということだろうか。 もう少し役に立つレポートになるかと思ってたけど、やっぱり無理だったという反省点を残しつつ、みなさんさようなら。 みなさん、地震その他の災害にはくれぐれもお気をつけくださいませ。 |
終了 |