真夏の恐怖劇場



それは、私が仏の道に入って最初に修行した寺での出来事であった。


そこは、由緒正しくはあったが、それだけに古く、村が貧しかったこともあり、そこかしこに修繕が必要な箇所が見つけられるような寺であった。

それでも、まだ子供と言ってよい歳の私には、それが当たり前のことと思われ、なんら不都合を感じることは無かった。

あの夜までは…






ある夏の深夜、尿意に目を覚まされた私は、もう一度このまま眠ってしまおうと、しばらく夜具の中で耐えていたが、どうにも我慢できなくなり、勇気をふりしぼって闇の中を厠へ向かうことにした。

小さい寺とはいえ、私たちの寝所から厠へは、それなりに長い廊下を抜けていかねばならず、修行を始めたばかりの未熟な子供である私には、そのあいだの闇の中に、この世のものではない何かが潜んでいるように思え、恐ろしくてならなかった。

小さな灯りを手にしてはいたが、その灯りに揺れながら浮かび上がる寺の廊下は、一層恐ろしく、私はほとんどの行程を目を固く閉じ、手探りのようにして進んだのであった。

歩を進めるごとに鼓動が速まり、これ以上速くなったら、心臓がつぶれてしまうのではないかと心配になり始めた頃、ようやく厠に着いた。

しかし、厠に着いたからといって、安心できたかというとそうではなく、むしろそこからが本当の恐怖だったのだ。

その寺の先輩修行僧によると、その厠は「出る」という話であった。
特に、奥から二番目の厠で用を足していると、苦しそうなうめき声が聞こえてきたり、天井に血まみれの女が貼り付いてこちらを見下ろしていたりと、必ず恐ろしい目に遭うということであった。

そんな話を聞いていた私は、ただただ、「奥から二番目の厠には入るまい」と念じながら歩いて来たのであったが、長い廊下を恐る恐る歩いているうちに尿意はさらに強まり、もう、刹那でも早く用を済ませたくて済ませたくて、目を閉じたまま厠へと駆け込み、へたるようにしゃがみ込んでしまったのだが、ふと我に返るとそこは、

「奥から二番目」。

これこそ魔が差したというものであろうか、私は目を固く閉じ、ただただ早く用を済ませようと、下腹辺りに力を込めた。

しかし、布団の中で長い時間我慢していたおかげで、なかなか用は足せず、私は、まぶたの裏に星が散るほど固く目を閉じたまま、小水が落ちてゆく音を聞き続けた。











ようやくその音がか細くなり始めた頃、便器の穴の奥から何やら別の音が聞こえてくるのに気づいた。

闇の中からわずかに聞こえてくるのは、あれは、

…人の声。

言葉は聞き取れないが、何かを訴えているような響き。
私は、「聞くまい聞くまい、聞いてはいけない」と、心では思いながらも、耳だけはいよいよ敏感に、その声に集中してしまっていた。
自分の鼓動の音とその声が混じり合い、やがて、私の中で声が形をとリ始めた。

「…くれぇ」
え?

「かみをくれぇ」

かみ?

「かみをくれぇ」

私は、そなえられていた紙をひっつかみ、大急ぎで穴に放り込んだ。

「………」

 ………

「ちが〜う」

「これじゃな〜い」

「わたしがほしいのはぁ…」





この髪だぁっ!


だぁだぁだぁだぁ…

………………………………

「うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」

「うひゃうひゃ、うひゃ、さる、さる、さる、猿の今の顔、かおかお。ひゃひゃひゃコノカミダァ!ひゃひゃひゃひゃ、ひゃっひゃっひゃっひゃっコノカミダァ!ひっひっひっひっ、コノカミコノカミコノカミコノカッ!ゲホッゲホッゲホッ、コノカッ!ゲホッゲホッ」

「お師匠様…」

「ひっ、ひっいやいや、まさかこんなにきれいにひっかっかるとは。いや悪かった悪かった悪かったな。うん。私が悪かったぞ。泣くなっ。っひっひ」


「…ひっ…ひっ…ひひっ
ひーぃいっと。どれ」

「…外の様子は、……………うむ」

ザァーーーーーーーーーー

「まだまだ降りやまぬ、か」


「きょうで三日も足止めだな…」

「さ、さようでございますね…」

「遥かだな…天竺も、

われらの夢も」

「さ、さようでございますね…」


天竺への道は…

   どうなんだろう…



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