見ることの塩 パレスチナ・セルビア紀行 四方田犬彦(著) 作品社 |
2006.3.5 |
第一回で感想を書いた『〈映画の見方〉がわかる本』の冒頭に、「日本を代表するビッグなミュージシャン」が、映画『地獄の黙示録』を観に行った時のお話が紹介されていた。 映画の終わり近くで隣の席のマネージャーにこう聞きました。 「ビッグなミュージシャン」が観た映画は『タクシードライバー』だったか、『時計じかけのオレンジ』だったか諸説あるらしい。 どの映画も、そういうふうに観る映画ではないというところがポイントの笑い話なのだが。 では。 「ビッグなミュージシャン」の、映画の見方を笑った人は、イスラエルやパレスチナを「見る」とき、何かを探していないだろうか?セルビアやアルバニアを「見る」時は?チェチェンとロシアを「見る」ときは? 私は探していた。 「で、どっちが善い者で、どっちが悪者なわけ?」 だが、『見ることの塩』を読んでいて思い知ったのは、パレスチナもセルビアも、そういうふうに「見る」ものではないということだった。 強者と弱者はいる。 軍事行動の加害者と被害者もいる。 自爆攻撃の加害者と被害者もいる。 何事も、距離を置いて眺めているうちは、輪郭をつかんで、色や形を把握しているように思い込んでいられるものだが、近づけば近づくほど(内部に入り込めばなおのこと)細部が現われ、輪郭も色分けも難しくなってゆく。 この本では、歴史的な「いきさつ」を含めた輪郭も語られるが、本題はあくまで筆者本人が経験した細部の描写であり、印象の記述である。 イスラエルには分離壁という物理的な輪郭があるが、そのあっちとこっちではやはり輪郭も色分けもぼやけているようだ。 そしてそのぼやけた中で「人間」が生きていること(死んでいること)が語られる。 第1部でイスラエル、パレスチナの旅が語られ、第2部でセルビア、コソヴォの旅が語られ、第3部では、書名と同じ「見ることの塩」というタイトルで、ふたつの旅についての「纏め」が語られる。 私は、第3部を読んでいて、ほんの少しだが、何かが見えたような気がした。 気はしたが、そのほんの少しを手がかりに、この感想に「まとめ」のような結末をつけるのは、 「で、どっちが善い者で、どっちが悪者なわけ?」 という問いを発するのと同等の単純さのように思えてしまうので、そういうものは書かない(正直言うと書けない)。 ただすべて読み、心にしみこませるだけだ。 見たことの無い何かを見せてくれた。 自分にとって本を読むことがとても大事なことであると思い出させてくれた本。 |
活字の子 |