この20年ほどの間で、「接待をしない営業マン」としての地位を確立させてきた私だが、最近はその地位が揺らいでいる。
「飲みたくないやつとは飲まない」という態度は死守しているが、お客さんで話が合う人とは飲みに行くようになった。
って、そんな相手はひとりだけなんだけど。
そんなわけで昨晩、そんな接待をした。
もともと話が合う相手なのであんな話こんな話で盛り上がる。
接待費で落ちるから金の心配も無いし。
しかし。
金の心配はいらないが、時間の心配を忘れていた。
2件目の店で、解禁になったなんとかヌボーとかいうワインを飲んだときは12時を回っていた。
あしたもあることだしと店を出て地下鉄駅に降りると、どっちもこっちも「最終」の表示。
ヌボーなんか飲んでる場合じゃなかった。
「ああ、もう帰れねぇな。行けるとこまで行こう」と、来た電車に乗ったが、寂しいことに「行けるとこ」は、会社の最寄り駅であった。
本当ならここで乗り換えて、もう少し自宅に接近する作戦だったのだが、乗り換えの線のホームに降りる階段が見えたところで、電車が走り去る音と、「ただいまの電車をもちまして本日の…」みたいな、血も涙も無いアナウンスが聞こえてきた。
同じような経験は過去にも何度かあったが、なんだろう、あの寂しさ。
電車に乗り遅れるのと同時に人生にも乗り遅れてしまったような挫折感無力感オレはダメな男だ感。
「アオキが車で通りかかんないかなー」などとつぶやきながら地上へ出る。
アオキって、家が近所の友達なんだけどね。
しかしアオキくんは影も形も無く、地上で私を待っていたのは路上駐車で客待ちをしているタクシーの大群であった。
もうよりどりみどり。乗りたいタクシーに乗れる。買い手市場の入れ食い状態。
ではあったが、人生に乗り遅れて落胆中の私は、何も考えず、目の前の角に止まっていたタクシーに乗り込んだ。出口から普通に歩くと自然にたどり着く位置だ。
私よりいくらか若いくらいの女性ドライバーだったが、行き先を告げると急にテンションが上がって、「高速使っちゃいましょうかぁ!」と楽しそうに叫ぶ。好きにしてくれ。
ここからだとそこそこの距離だから、いい客らしい。ドライバーはあからさまにうれしそうだ。こんな「あからさま」に出会うのも久しぶりだ。
高速へ向かう道もタクシーの路上駐車だらけだった。
都心の、片側三車線の道路の一車線が全部タクシーの路上駐車で埋まっている。ちょっと異様な光景。
「この時間はいつもこうなんですよう!」
と、「いい客拾ったぁ!もらったぁ!」のテンションのまま話し続ける。
やはりあの角は客を拾うにはいい位置らしく、
「狙って停めてたんすよー」
そうか狙われてたか俺。つーか人生乗り遅れサラリーマン。
「もう大当たりでしたよー」
タクシー代は接待費で落とせないのでこっちは落胆しているのだが、
「ここからだといちまんにさんぜんはいきますからねー、いちまんにさんぜんは」
二回も言いやがった。うれしそうに。
「いきますからねー」じゃなくて「いっちゃいますからねー」だろ。そしてお前にわずかでも人間の心があるのなら「残念ながら」とか付け加えろ。
思わぬ出費で落胆しているおっちゃんに少しは同情してくれ。
「領収書もいりますよね?」
まだしばらくあるのに、ドライバーはあくまで明るくそんなことを問いかけてくる。いちまんにさんぜんの領収書を切りたくてしょうがないみたいだ。もうウキウキしちゃってる。
「落とせないからいいよ」
「えー!そうなんですかぁ?でももしかしたらってこともあるから一応出しますね」
もしかしたらなんてねーよ。
でも一応もらっとくことにする。
首都高速を走ってるのもタクシーだらけだった。
一台にひとりづつ、人生に乗り遅れたサラリーマンが乗っているのかもしれない。
乗り遅れサラリーマンを乗せたウキウキタクシーが集団で首都高を走る。愉快愉快。
愉快か?
しかし、いくらいい客と言っても一万いくらかだ。このドライバーのこの喜び方はちょっとバランスを失しているような気がする。
ひょっとしたら苦労人なのかも。苦労人に訪れたつかの間の小さな幸せなのかも。
家には幼い子供と寝たきりの父が待っているのかもしれない。
別れた夫が酒臭い息を吐きながら金をせびりにくるのかもしれない。
「あんたとはもう何の関係もないのよ」なんて言いながらそれでも金を渡して、
「お願いだからこれっきりにして。ヨシオ(子供の名前)に見つからないうちに帰って」
なんて言ってるのかもしれない。
そうか。
苦労してるんだ。
そんな、つらいことばかりの日常の、ちょっとした「いいこと」が私を乗せたことだったとしたら。
よかろう。
もう間抜けな乗り遅れサラリーマンに同情しろなんて言うまい。
よろこび称えよ、小さな幸せを。思う存分気が済むまでハイテンションで運転するがよい。苦労人よ。
中島みゆきの歌では、苦労人のタクシードライバーは「天気予報が今夜もはずれた話と野球の話ばかり」何度も何度も繰り返すことになっているが、私が出会った苦労人ドライバーは、ハイテンションでしゃべりまくり、着いてもいないのに領収書を切りたがる。
高速を降り、しばらく走ると懐かしいわが町が見えてきた。
もう少し。もう少しでわが家に帰れる。幸せなわが家に。
思わぬ出費は痛かったが、いいだろう。苦労人のドライバーをちょっぴり幸せにしてあげられた満足感は残る。
「あの信号の先あたりで止めてください」
「はぁーい」
「先あたり」でタクシーが止まる。
さぁ、領収書をお切りなさい。思う存分。
私は、小さな幸せを運ぶ小さな天使。ひとびとの笑顔が…
「あらー?」
何か?
「9,970円ですぅ。いちまんえんいきませんでしたぁ。」
ほんの少し声のトーンが落ちたのを私は聞き逃さなかった。
ほんの少し。にさんぜんえんぶん。